霊的真理をもう学べる人・まだ学ぶ選択が来てない人

こんなタイトルを書いてしまうと、学べるのが偉いのか!ってなりがちなのですが…

ここ最近のスピリチュアルにアンチな方々をSNSで拝見していて、どうして霊的真理が秘儀なのか…秘儀にしなければならないのか。少し理解した気がします。

例えば人生の青写真と言われる、今の肉体に生まれる前に人生を選択してきたと言われるもの。

実際は、ある程度の指針を決めているだけで細かいところは本人の努力や自分の選択次第ですし、決めた指針をやらない自由もあるのです。しなくたっていいの。

ただ、できたらした方が魂が向かいたい方向と今いる位置のギャップが埋められていって距離が縮まるよってだけで。

生まれる前にこの家に行くと決めていると言うのも、だいたい今世はこんな指針があるからこの辺りの地域に行けば経験できる…と大きなくくりで。どの家庭に行くかもある意味博打といいますか、そんなようなものらしいですし。

実際は波長にあった場所に行ってるんだろうけども。

で、知識としてそのようなことを知っているからといって、現在の誰かの苦しみを十把一絡げにこのような仕組みだからあなたはこうなんですと言ったところで感情は受け入れられないですよね。

ここに、霊的真理の落とし穴があり、秘儀である理由があるんだと感じます。

霊的真理って、鵜呑みにしてもいけないんです。自分で考えて体感して落とし込んで、叡智にしていかなければ本当に理解したことにはならない。他の物事でもきっと一緒ですよね。仕事だってそう。教わって、実行して、失敗や成功をしてようやく自分なりの方法を見つけていける。

鵜呑みにすると、どうしても歪みがでます。依存、期待。自分(の思考や体験)以外のものに正解を求めてしまい…結果、自分が思った通りの応えがないと、嘘だ!インチキ!偽物!と喚き立ててしまう…

また逆に、自分で思考・体験して落とし込んだことを正義と思ってもならない。自分の正しさを証明するために霊的真理の秘儀があるわけではない。それは傲慢さに過ぎないのです。

どんな教えもメソッドも、結局はその人次第なのです。その人の波動にあったものに変化していくんです。だから、”人間力”と言うのでしょうか。その人のベースそのものが中庸、ブレても戻せるようになるまでは秘儀とせざるを得ないものだった…一定の波動や波長へと進めた人たち、また進んで行くと選択した者たちに教えられるものだったんだなと思います。

難しいですね…私は、霊的真理を色んな人に知って欲しいし、参考になる書籍だって日本だけじゃなく世界中で出版されてます。しかし、否定する人たちは目も向けないジャンルです。

学べる選択がまだ来てない人たちは、いつ学べるようになるのでしょう…

現実的に地に足をつけしっかりと生活していくことは大前提なのですが、目に見えるものだけが全てと思ってしまうのも視野を狭めます。証明しろ!証拠をよこせ!と他者に要求しているうちは、まだなのかもしれません…。


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